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石峰寺と伊藤若冲

寺院のご紹介

黄檗山万福寺を本山とする黄檗寺院であり宝永年間(1704〜11)黄檗宗第6世賜紫千呆(せんがい)に建立された禅道場である。本尊は昭和54年の放火で焼けるまでは薬師如来であったが昭和60年11月の本堂再建時に釈迦如来になる。寛政年間に画家伊藤若冲が当寺と草庵を結び七代密山修大和 尚の協賛を得て五百羅漢を作成。当時千体以上あったと言われているが今は五百体残っている五百羅漢を本堂裏山にて拝観できる寺院であり本堂南には伊藤若冲の墓と書家貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文の筆塚が立っている。

伊藤若冲

江戸時代中期の画家。享保元年(1716)京都高倉錦小路の青物問屋の長男として生まれ23歳のときに家業を継ぐが40歳で家督を次弟白歳に譲り画業に専念する。
30代後半に相国寺の塔頭慈雲庵の住職大典和尚と出会い仏教特に禅に興味を持ち参禅し「若冲居士」の号を得る。
55歳までに代表作である「動植彩絵」30幅と「釈迦、普賢、文殊三尊画像」(三幅対)などを描き終え相国寺に寄進する。
その後宗教の原質を求めて黄檗山へとはいり石峰寺七代住職密山修大和尚と出会い協賛を得て「五百羅漢」の制作を始める。完成はいろいろ諸説はあるが天明8年(1788)の京都大火(天明の大火)以後と推定されている。
この天明の大火で若冲は家を焼かれ家産を失った。そののち大阪の木村蒹葭堂を訪ね、豊中市の西福寺、伏見の海宝寺に滞在し、寛政2年(1791)ごろから石峰寺に隠栖したとされ寛政12年(1800)9月10日85歳で没し石峰寺に土葬され、遺髪が菩提寺宝蔵寺と相国寺に埋納された。